小心者

痛みが限界をこえないと医者にはいかない。薬を飲んで治まるならならそれがベスト。

何事もそんな感じでやっている。

何か事をおこすときに、

一歩を踏み出すときに、臨界値をこえていないとしないのは私だけだろうか。

不具合が見つかってもそうだ。やりすごすことができればそれでいい。

こんなんでいいのかな。

いまのところ支障がないのでいいか。根がネガティブなので、小心者だしそれでいいことにしておこう。

 

平穏

雲ひとつない青空だ。

快晴だ。「さくら」の花びらが所々抜け落ちてしまった枝が青空に向かって伸びている。

「さくら」って本当にすぐに散ってしまう。そんな感情はいまだからもてる。

寒の戻りか、今日は思わずダウンを着てしまった。正解だ。年寄りにはちょうどいい。

さて、月曜は何もする気がわいてこない。明日からぼちぼちやるか。

4月

今日から4月だ。かつては、あの何とも言えない緊張とやる気と前へ前へとはやる気持ちを持て余しながらこの時期を生きていた。今はあの4月の心情は遠い過去のこと。もう戻ることはない。そのことが懐かしさを心にあふれさせる。

ゆっくりとゆっくりと歩んでいけばいい。自分を誰かと比べたり、卑下したり、そんなことはもういい。自分をみつめ、自分と対話し、赴くままに過ごしたい。

今はそんなふうに思えるようになった。問いを紡ぎだし答えを求めて生きよう。

 

さくら

圧倒的な華やかさに心を奪われてしまった。こんなにじっくりと眺めるのは初めてなのかもしれない。買い物帰りに、近所の公園の「さくら」に見入ってしまった。例年に比べて早いようだが。

現役のころはそんな時間的な余裕なんかなかった。教員にとってこの時期はさまざまな仕事が重なる。当然、気持ちも落ち着かず「さくら」をじっくり観ることもかなわない精神状態だった。

リタイアして暇な時間をもてるようになってこんなことができるようになった。ここしばらくは「さくら」を愛でたいと思う。

 

時間Ⅱ

研究をのぞいてみたら、明治後期 日露戦争後に時計の普及がみられたということです。このころ、おおよそ7割ぐらいの家庭に時計があったらしい。これで疑問の一つは解消した。しかし、考えてみなければならないのは、不定時法的な時間感覚は時計が普及したことぐらいではなくならないということだ。近代的な時間感覚は家庭で学校で社会でのさまざまな活動を通して浸透したのだろう。その始期にあたる大正期を生きた人々の生活の中に近代的な時間と前近代的な時間がどのようにせめぎあっていたのか、考えていきたい。

時間

考え出すとわかないことがあまりに多いことに愕然とする。

いま考えているのは、明治後期から大正時代にかけて(1900年ごろから1920年ごろにかけて)、小学生はどのようにして登校していたのかということです。

例えば、朝8時30分に学校に到着しなければならないとして、家を出る時刻は何によって知ったのか。各家庭に時計がある家もあれば、ない家もあっただろう。ない家庭の小学生はどうしたのか。時計がある家の小学生が誘いにきたのか。農村部であれば寺の鐘か。あるいは、日の出とともに起床し食事を済ませるとすぐに学校へと向かったのか。登校の形態もわからない。集団で登校していたのか、個々ばらばらに登校していたのか。

都市部であれ、地域の中での人々の結びつきは現在よりももっと濃厚であったのか。そこから考えてみるか。当たり前に行っていた行動は記録には残らない。

1920年に「時の記念日」が制定されている。6月10日だ。時間の意識も時計の普及もまだまだであったのだろう。

 

墓参り

墓参りを続けている。大学時代の友人が数年前にリハビリ闘病の甲斐なく亡くなった。親しかった友人4人と命日に近い日を選んで毎年5月上旬に集まっている。1回でやめる予定であったが、「あいつが俺らを集めている」という友人の言葉に納得して現在に至るも続けている。昨年はコロナ禍の中、緊急事態宣言が発令中であったのでどうしたものかと思案したが、宣言解除後の8月の暑い時だったが集まることができた。それぞれが自分のフィールドをもち活躍している様子を聞くだけで自分もやらなければという思いにさせてくれる。あいつは草葉の陰から微笑んでいるのだろうか。